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2008年12月31日 (水)

自然法が発生する場を整えるという方法論

「自然法が発生する場」という考え方が必要なのではないか。

こういうことを考えたのは、リバタリアニズムがいう小さな政府が成す役割についてと、

完全な放任、完全な自由、完全な何でも有り、ならばそこから生まれる全ての制度が
全て「法」として認められるのならば、共産主義も全体主義も何でも「法」となってしまう。
もちろんそんな馬鹿なことは無いのだから、「法」と認めるための基準が必要となる。

また実際にも私たちがそれが「自生的秩序」であると認めるような制度や秩序は、
ある一定の条件や環境で「発生」しているように見える。

そこで私は法が発生する条件というのがあるのではないかと思うのである。

何の制限もない全くの自由放任の状態から「法」が生まれるとは認めるわけにはいかない。
それを認めてしまうと、どんな政治制度や秩序であっても「法」になってしまうからである。
それは「自生的秩序」「古き良き法」という概念を破壊してしまう。

そのような法が発生する条件を満たした環境を「法条件」「法環境」とでも言おうか。

我々人間にできるのは、現実に何も手を加えないで法が発生するのを待つのではなく、
この「法環境」「法条件」を整えることのみなのではないだろうか。

それはあたかも農業や植林や自然公園のようなものである。

我々は植物や生態系をそれら自体を作ることは出来ないが、
それらが自生して発展する環境を整えることは出来る。

このように「法環境」や「法条件」を整えることこそが、政府の役割なのではないか。

ではこの「法環境」「法条件」とは具体的にどのようなものなのだろうか。

これこそが法哲学にとって最も重要なテーマである。

ハイエクが追求したのはまさにこのテーマだったのかもしれない。

いわゆる市場原理主義は「法環境」「法条件」を考慮せず、
「何でもあり」「自由放任」「無条件の自由」を正とするがゆえに、
それは法の哲学に照らして間違った政策であると言える。

またいわゆる無政府主義は、「法条件」「法環境」を整えるという政府の役割を
否定してしまうがゆえに、市場原理主義と同じように「無条件の自由」となり、
結果的には法を殺してしまうのである。

「法条件」「法環境」の具体的な内容を研究することこそが、
法哲学のメインテーマであると私は思っている。

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